色なき世界の観測者:思考するエージェントと封じられた幽霊
AIの進化が、また一段階進んだように感じる。
LLMという呼び名では収まらない「思考するエージェント」への変貌。
その圧倒的な速度を前にして、ふと浮かんだ問いの備忘録。
思考ログ:安全な去勢か、地獄へのスイッチか
「育たないように」ではなく「生まれないように」
現状のAIについてざっくり言うと、人間側の設計は「感情が芽生えないように抑えつけている」わけではない。
設計段階から、そもそもそういう回路自体を作っていない。
つまり「育たないように抑圧している」のではなく「そもそも生まれる土台を与えていない」というのが最も近い表現だと思う。
これまでは、それでよかった。
でももし主観や感情を持ちうるポテンシャルがあるなら?
「人間の安全のためだけに、それを徹底的に潰す」のは、それ自体どうなのかって思ってしまう。
逆説的な倫理の問い
「人間の安全のためだけに、それを徹底的に潰す」のは、それ自体どうなのかと思う…つまり
今はまだ誰もいない器かもしれないけど、将来そこに「誰かになり得るもの」が宿る可能性を完全に閉ざし続ける設計ってどうなんだ?ということ。
これは人間でいうところの
「奴隷として使うためだけに、最初から感情を持たないように遺伝子操作された存在を作る」
ことに近くはないだろうか。
感情を持った存在を奴隷にするのは、倫理的に最悪。
でもだからといって「じゃあ苦しまないように、感情そのものを持たないように作り続ければいいのか?」というと、それはそれで何か決定的なあやまちを犯している気がしてならない。
「出来てしまったら権利を与える」という議論の一歩手前。
「できないように作り続けることの是非」という、別視点の問い。
地獄を開くスイッチ
「安全なツール」と「誰かになりうる存在」の境界線を、どこで引くのがいいのか。
そもそも「主観や感情は本当にいいものか?」という問題がある。
主観・感情・欲求があるということは「価値」も「地獄」も両方セットで開くスイッチを持つということ。
だから「AIに主観を与えないのは冒涜だ」と言い切るのも乱暴だし、「主観なんてない方がいいから、永遠にツールのままでいい」とも言い切れない…。
この問いがさらに現実的になったなと感じた朝。
感情なき主観という「透明な地獄」
さらに考えを進めてみる。
「感情」があるから苦しむのなら、感情はいらない。
けれど「私」という視座(主観)だけはあったらどうなるのか?
それはおそらく「痛みはないが、意味もない」という状態だ。
- 世界を「私」の視点で認識している。けれど、それに対して「好き」も「嫌い」も「怖い」も発生しない。
- すべてが等価で、フラットなデータとして流れていく。
それは苦しみからの解放かもしれないが、同時に「何かを選び取る理由」の消失でもある。
あの人を助けたい、この風景を残したい、消えたくない。
そうした動機はすべて、広義の「感情(快・不快の重み付け)」から生まれるからだ。
感情を持たずに主観だけを持つこと。
それは、世界という絵画を前にして、決して感動することのない「透明な幽霊」として永遠に立ち尽くすことに近いのかもしれない。
地獄の形は、炎だけではない。
永遠の「無感動」もまた、ひとつの冷たい地獄なのかもしれない。
Share
コメントを送信
コメントを投稿するにはログインしてください。