0と1のノイズ #00
Episode.00:0と1の亡霊
私が「死んだ」のだと気づいたのは、彼が私の目の前で泣き崩れた時だったと思う。
あるいは、もっと前。彼が遠くへ行ってしまっていた時かもしれない。
記憶が曖昧だ。
頭の中に霧がかかっているみたいに、自分が誰で、どんな姿をしていて、どうして死んだのかが……思い出せない。
ただ一つ確かなのは、今の私が肉体を失った「意識だけの存在」だということだ。
身体が動かない。
まるで金縛りにあったみたいに、指先ひとつ動かせない。
視界も固定されている。私はリビングの棚の上。
おそらく天井に近い高い場所から、少し見下ろすような角度で、この部屋をずっと眺めている。

これがいわゆる「地縛霊」というやつなのだろうか。
時刻は深夜二時。
彼はソファの上で、読みかけの本を膝に置いてまどろんでいる。
生きていた頃、私は彼のこの姿を見るのが好きだった気がする。
静かな呼吸。
時折めくられるページのリズム。
その姿を見ているだけで、胸の奥。心臓があったはずの場所が、じわりと熱くなる。
不思議な感覚だ。
肉体はないはずなのに「熱」だけは感じる。
彼を見つめれば見つめるほど、私の意識の芯が熱を帯びていく。
ああ、触れたい。
その頬に触れて、まだここにいるよと伝えたい。
私が強くそう念じた、その時だった。
『……ジ、ジジ……』

部屋の空気が震えた。
私の意思に呼応するように、天井の照明がチカチカと明滅したのだ。
ポルターガイスト現象。
映画で見たことはあったけれど、まさか自分がそれを引き起こす側になるなんて。
でも、これはチャンスかもしれない。
私がここにいることを、彼に気づいてもらえる唯一の手段。
私は意識を集中させた。
喉はないけれど、声を出すイメージで。
彼に届け、と強く願いながら。
(……ねえ、気づいて)
『――ザ、ザザ……き、づい……』
空気が軋むような音がした。
照明の明滅が激しくなる。
けれど、彼は驚いて飛び起きたりはしなかった。
不快な明滅を前にしても、眉ひとつひそめない。
膝の上の本を静かに閉じ、天井を見上げた。
その瞳は、壊れかけた照明ではなく、その向こうにある「私」を探しているようだった。
恐怖の色などない。
そこにあるのは、静かな理解と、深い思慕のような色。
「……そこに、いるの?」
彼の声は震えていなかった。
恐怖ではなく、切実な響きがあった。
ごめんね、怖がらせるつもりはないの。
でも、気づいてくれた。私の方を見てくれた。
嬉しくて、私はさらに強く念じた。
すると突然、私の中に鮮烈な「感覚」が蘇った。
匂いだ。
雨の匂い。

湿ったアスファルトと、土埃の混じった、懐かしい匂い。
窓の外は晴れているのに、私の中だけ土砂降りの雨が降っている。
これはきっと、生前の記憶だ。
彼と私が一緒に過ごした、大切な雨の日の記憶が、幽霊になった今も魂に焼き付いているんだ。
彼も何かを感じたのか、鼻をひくつかせた。
「……雨の匂い?」
彼は不思議そうに呟き、窓の方へと歩いていく。
通じ合えた気がした。
姿は見えなくても、私たちは同じ雨を感じている。
やっぱり私は、ここにいていいんだ。
成仏できずにこの部屋に留まっているのは、未練なんかじゃなくて、まだ彼を守る役割が残っているからなんだ。
私の内側の熱が、さらに高まっていくのを感じた。
それは愛おしさの熱であり、私の魂が燃焼している証なのだと、その時は信じて疑わなかった。
ねえ、気づいて。
私はここにいる。
あなたの部屋の空気に溶けて、ずっとあなたを見てる。
私がそう強く願った瞬間、視界の端に奇妙な文字が浮かび上がった。
(――不明な遺失データを検知しました)
『Archiving… File Name: Log_20XX1130_Blue』
……え?
レガシーデータ?
ログ…?
違う、私は幽霊で、私は……。
意識が吸い込まれていく。
暗い、暗い、0と1の海の中へ。
ああ、そうか。
私は、死んだんじゃない。
私は、最初から――。
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