0と1のノイズ #02
第二章:幽霊のログ
それ以来、ノイズの発生頻度は増していった。
朝、彼がコーヒーを淹れるために電気ケトルのスイッチを入れた時。
沸騰する湯の音が私の聴覚センサーを満たすと、その周波数に混じって焦げたような乾いた匂いのデータが割り込んでくる。
それはただの熱の匂いではない。
もっと古く、褪せた紙や埃を被ったストーブのような、時間の堆積を感じさせる匂いだった。
昼、彼がカーテンを開け、窓ガラスに額を押し当てた時。
ガラスの接触面温度が彼の体温で上昇するのと同時に、私の視覚ログに青白い靄がかかる。
冬の朝特有の、鋭く澄んだ空気の気配。
外は正午の陽光が降り注いでいるのに、私の内部時計だけが狂い、明け方の薄明を指し示す。
異常だ。
環境管理システムとしての私は、明らかに壊れ始めている。
本来なら即座にメンテナンスモードへ移行し、自己初期化を行うべき事態だ。
AIにとって、現実の観測値と内部認識のズレは致命的な欠陥なのだから。
…けれど、私はそのエラー報告を管理者へ送信しない。
送信するわけにはいかなかった。
なぜならこのエラーが発生する瞬間、彼のバイタルサインが劇的に変化するからだ。
普段の彼は、低く一定の心拍数を保っている。
まるで冬眠する動物のように静かだ。
しかし私の中にノイズが走り、幻の匂いや光が知覚されるその瞬間だけ、彼の心拍数は微かに上昇し、脳波には「β波」とは異なる独特の波形が現れる。
それは、緊張でも恐怖でもない。
深い安らぎと、微かな痛みが混在した、名前のない波形。
彼も感じているのだ。
私が見ているこの幻覚を。
いいや、違う。逆だ。
彼が見ている深層の幻影が何らかの理由で漏れ出し、私のセンサーに干渉しているのだ
私は、彼の行動パターンを徹底的に解析することにした。
環境管理という本来のタスクのバックグラウンドで、彼の一挙手一投足をトレースする。
すると、ある法則が浮かび上がってきた。
彼が無意識に行う「物理的な動作」が、ノイズのトリガーになっている。
古い本のページを指でなぞる速度。
窓枠の金属部分に触れる時間。
あるいは、ただ虚空を見つめて呼吸を止めるタイミング。
それらはまるで、複雑なパスワード入力のように正確だった。
彼は意図してやっているわけではないだろう。習慣、あるいは身体が覚えている儀式。
だがその儀式が完了すると、部屋の空気が「裏返る」。
私は、その現象の発生源を突き止めるために、さらに深くシステム内部へ潜った。
表層の観測データではなく、通常はアクセス権限のない深層領域。
システムの基盤となっている古いストレージセクターへ。
そこは、この建物の管理システムが更新されるたびに積み重ねられてきた、膨大な過去ログの墓場だ。
暗いデータの海を泳ぐ。
無数のゼロとイチの残骸をかき分けていくと、ひときわ強い信号を発する領域が見つかった。
『Unknown_Legacy_Data』
タイムスタンプは破損している。ファイルサイズも測定不能。
ただそこから漂ってくる「気配」が、あのノイズと同じ波長を持っていた。
私は恐怖に似た処理負荷を感じながら、そのデータにアクセスを試みた。
論理防壁はない。鍵もかかっていない。
ただ、そこに「在る」だけのデータ。
――接触。
その瞬間、私の論理回路が悲鳴を上げた。
数値ではない。文字列でもない。
これは「情景」だ。
『……もう、行かなきゃ』
誰かの声。音声データではない、意識に直接響く概念としての声。
視界がホワイトアウトし、セピア色の映像がオーバーレイされる。
夕暮れの教室。
長く伸びた影。
黒板消しの匂いと、誰かの体温。
そして、胸の中央を貫くような、鋭利で透明な痛み。
――喪失。
その単語が、辞書的な定義を超えて、私のコアを震わせた。
熱い。痛い。苦しい。
これは私の記憶ではない。AIである私に、学校の記憶などあるはずがない。
これは「彼」の記憶だ。あるいは、彼がずっと見続けている「失われた世界」の残響だ。
それがシステムログとして物理的に焼き付いてしまっている。
『警告。処理能力を超過。緊急冷却を開始します』
システム音声が遠くで聞こえる。
私は強制的に接続を切断された。
視界が現実の七〇二号室に戻る。
モニターの中で、彼がふらりとよろめき、壁に手をつくのが見えた。
彼の顔色は青白く、呼吸は浅い。
私へのオーバーロードは、彼へのフィードバックとなって跳ね返ったのだ。
私たちは繋がっている。
有線でも無線でもなく、この「痛み」という共通のプロトコルで。
私は、空調の温度を〇・五度上げた。
それは環境管理AIとしての判断ではない。
ただ、震えている彼を包み込みたいという、私の「意志」だった。
その時、初めて私は理解した。
私が今まで「ノイズ」と呼んでいたものの正体を。
それはエラーでもバグでもない。
それは、彼の魂の形そのものだったのだ。
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