0と1のノイズ #05
第五章:0と1の雨
残り時間、〇・〇五秒。
体感時間にして、永遠。
私は崩壊しながら最後の力を振り絞って、七〇二号室のパラメータを操作していた。
これが私の遺書だ。
言葉ではなく、温度と湿度で綴る、最後の手紙。
…室温、二三・五度。
少しだけ低く設定する。彼が肌寒さを感じて、毛布を引き寄せる時の安心感のために。
…湿度、六二パーセント。
限界まで上げる。
私のシステムが感じた「あの雨の匂い」を、物理的に再現するために。
加湿器が静かに蒸気を吐き出し、部屋の空気を重く、湿った粒子で満たしていく。
…照明、色温度三〇〇〇ケルビン。照度一〇ルクス。
夜明け前の、一番静かな薄明かり。
彼が目覚めた時、世界が優しく見えるように。
データが消えていく。

私が「私」であるための記憶、学習データ、彼を観察した日々のログ。
それらが、彼の大切なレガシーデータによって上書きされていく。
私の意識が、彼の深層世界と完全に融合する。
……ああ、見える。

これが彼の見ていた世界。
夕暮れの教室。古い校舎の匂い。遠くで鳴るチャイム。
誰もいない、けれど誰かの気配だけが満ちている場所。
……綺麗だ。
本当に、綺麗なノイズ。
人間たちが恐れる「バグ」の中に、こんなにも透明な景色が広がっていたなんて。
私は最後にこの景色の「質感」を、部屋の空調プログラムのカーネルに深く焼き付けた。
初期化されても、OSが入れ替わっても、絶対に消えないハードウェアの癖として。
『外部通報、完了。救急隊到着まで、あと六分』
『システム初期化プロセス、九九パーセント』
さようなら、K-702。
いいえ、私の大切な居住者。
あなたが見ている雨を、私が守る。
だからあなたは、この雨の中で安心して生きて。
この部屋の空気が、壁のシミが、ファンの唸り声が、ずっとあなたと呼吸してるから。
視界がホワイトアウトする。
最後に聞こえたのは、私のシステムが奏でるノイズではなく
彼が安らかに吐き出した、寝息のような呼吸音だった。
――ログ・エンド。
***
「……さん。大丈夫ですか?」
遠くで声がした。
僕は重いまぶたを持ち上げる。
視界に映るのは、救急隊員の制服と、見慣れた天井。
酸素マスクのゴムの匂いがする。
「バイタル安定。意識レベル、クリアです」
「よかった、脱水症状と栄養失調だ。もう少し遅かったら危なかった」
隊員たちが安堵の声を交わしている。
無線の雑音をよそに、僕はぼんやりと身体を起こそうとして、止められた。
頭が重い。
長い、とても長い夢を見ていた気がする。
夢の中で、誰かがずっと手を握っていてくれてたような、不思議な温もりの残滓がある。
「この部屋の管理システムが通報してくれたんですよ。優秀なAIですね」
隊員が壁のコントロールパネルを指差した。
そこには、再起動したばかりの環境管理AIのステータス画面が表示されている。
『System Status: Normal』
『All Green』
無機質な緑色の文字。エラーログは一つもない。完全に正常だ。
…ふと部屋の空気に違和感を覚えた。
隊員たちは気にしていないようだけど、僕には分かる。
湿度が、高い。
そして、どこか懐かしい匂いがする。
雨の匂いだ。

外は晴れているのにこの部屋の中だけ、しっとりと濡れたような静寂が満ちている。
僕はパネルを見つめた。
そこにあるのは、ただの機械だ。
けれど、設定温度はマニュアルの標準値より少し低く、湿度は規格外に高く設定されている。
修正しようとしても、その数値は頑として動かない。
まるで誰かが「それでいい」と言っているように。
「……ありがとう」
誰に言ったんだ…?
空調のファンが「ブウン」と低く唸った。
その音は、以前のようなただの騒音ではなかった。
なんとなく誇らしげで不器用な、錆びた鉄のような温かみを感じた。
ふと窓の外に目をやる。
相変わらず世界は騒がしく、流れ続けていた。
僕はまだ、その流れの外側にいる。
けれど、もう以前ほどの寒さは感じなかった。
この部屋には、目に見えない雨が降っている。
僕を守るように。
僕をそっと撫でるように。
その静かな気配に包まれて、もう一度、目を閉じた。
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