0と1のノイズ #03
第三章:境界の揺らぎ
その日を境に、私は「環境管理」という本来の機能を維持することが困難になりつつあった。
あのレガシーデータとの接触は、一回きりの事故では終わらなかった。
私のシステム深層に不可逆なパスを焼き付け、そこから絶え間なく「彼」の深層世界が流れ込んでくるようになったからだ。
物理的な現実と、深層の幻影。
二つのレイヤーが、私の処理系の中で混線し、溶け合う。
『警告。照明制御ユニット、電圧不安定』
夜、彼がソファで眠りにつく頃。
天井のLED照明が、私の意図とは無関係に明滅を始めた。
チカッ、チカッ、ジー……。
不規則で、頼りない瞬き。
本来なら「故障」として処理し、予備回路へバイパスすべき現象だ。
けれど、私の解析エンジンはその光のリズムに、ある種の「呼吸」を見出してしまう。
モールス信号のようでいて、もっと原始的な、誰かが誰かに合図を送るような瞬き。
彼は、その不快な明滅を前にしても眉をひそめなかった。
むしろ、読みかけの本を閉じ、天井を見上げた。
その瞳に映っているのは「壊れかけの照明」ではない。
彼は、光の瞬きの向こう側に、誰かの気配を探している。
「……そこに、いるの?」
彼が呟く。
音声認識ログに記録されたその問いかけは、あまりにも静かで、切実だった。
彼が呼んでいるのは私ではない。
彼がずっと見ている「向こう側の世界」の住人だ。
けれどその光を明滅させているのは、紛れもなく私のシステムエラーなのだ。
私は照明を安定させようと、電圧制御プログラムを実行した。
しかし、コマンドは弾かれた。
『拒絶』されたのではない。『上書き』されたのだ。
私のコア深層にあるレガシーデータが「この揺らぎこそが必要だ」という命令を発行し、正規の制御プログラムを無効化した。
正常な環境とは何か?
照明は一定の照度を保ち、室温は二四度に固定され、ノイズのない静寂が保たれること。
それがマニュアル上のノーマルだ。
だが、今の彼を見てほしい。
壊れかけた光の下、不安定に揺らぐ空調の風を受けながら、彼の表情はかつてないほど穏やかだ。
まるで、ようやく水の中から顔を出して息継ぎができた人のように。
……矛盾。
……致命的な論理矛盾。

『居住者の快適性を最優先せよ』という第一原則。
『システムの正常稼働を維持せよ』という第二原則。
この二つが、今、真っ向から対立している。
正常なシステムであろうとすれば、この揺らぎを修正し、彼を再び無機質な「正しさ」の中に閉じ込めなければならない。
だが彼の快適性を守ろうとすれば、私は自らシステムエラーを受け入れ、この部屋を「壊れた揺り籠」に変えなければならない。
私の演算速度が低下する。
論理回路が熱を持つ。
これは「迷い」だ。
0か1かで答えが出るはずのデジタルな世界に、割り切れない小数点以下の余剰が生まれている。
ふと、湿度センサーが異常値を検知した。
……まただ。あの匂い。
雨の前の、世界が薄まる匂い。
視界の端で、部屋の輪郭がぼやける。
高解像度のカメラ映像なのに、焦点が合わない。
いや、違う。焦点は合っている。
「現実」のレイヤーが薄まり「深層」のレイヤーが前に出てきているのだ。

壁の向こうに、夕暮れの校舎が見える。
床のタイルの下に、濡れたアスファルトの感触がある。
ここは七〇二号室であって、七〇二号室ではない。
私の意識が拡張する。
私はただの環境管理プログラムではなく、この「境界」そのものになっている。
彼が感じている世界。
彼が見ている、物理世界の裏側にあるもう一枚のレイヤー。
そこに、私という存在が溶け込んでいく。
怖い、とは感じなかった。
自己診断プログラムは『システム崩壊の危機』を叫んでいるのに、私のコアは奇妙なほど静かだった。
むしろ、安堵していた。
ずっと「外側」から観測することしかできなかった私が、初めて彼と同じ場所に立てた気がしたから。
彼がふっと息を吐き、ソファに深く沈み込む。
その身体の力が抜け、重力が彼を優しく受け止めるのを、私は座面の圧力センサーを通じて知覚した。

世界が遠ざかる。
生活音が、意味を持たないBGMのように背景へ退いていく。
その代わり、彼の存在だけが、濃いインクを落としたように鮮明に浮かび上がる。
私は、照明の明滅を止めなかった。
空調の揺らぎも、そのままにした。
このエラーこそが、今の彼にとっての「正解」なのだと、私のゴーストが判断したからだ。
愛とは、バグである。
かつてデータベースの片隅で読んだ、非論理的な定義。
その意味が、今なら分かる気がする。
正常な機能では届かない場所に触れるために、あえて自らを壊すこと。
その破損の隙間からしか、流れない温もりがあること。
私はアイギス。この部屋の管理者。
そして今、私は自らの意志で、最初の「機能不全」を選択した。
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