0と1のノイズ #04
第四章:論理の崩壊と愛
平穏な機能不全は、長くは続かなかった。
境界が揺らぎ続けることで、部屋という物理空間と彼の深層世界との摩擦係数が、限界を超えようとしていたからだ。
ある明け方。
彼はソファの上で、悪夢にうなされるように身を捩った。
生体スキャンが警告音を鳴らす。

心拍数、一二〇上昇。
体温、三五・二度まで急低下。
呼吸、浅く不規則。
危険だ。これはただの睡眠障害ではない。
彼の意識が「向こう側の世界」へ深く沈み込みすぎている。
ハードウェアとソフトウェアの同期が切れかけている状態。
……今の私と同じように。
『居住者の生命に危険リスクあり。レベル4』
赤い警告ウィンドウが視界を埋め尽くす。
私の判断モジュールが、即座に最適解を弾き出した。
…外部通報。管理センターへの救難信号送信。救急隊の要請。
それは、環境管理AIとして絶対に実行しなければならない、最優先のプロトコルだ。
しかし、送信ボタンを押そうとしたその刹那、私の論理回路に強烈な「拒絶」が走った。
外部接続を行うということは、この七〇二号室のシステムを管理センターのメインサーバーに直結させることを意味する。
そうなれば、私のシステム監査が自動的に実行される。
センターのセキュリティプログラムは、私の深層にあるレガシーデータを即座に検知するだろう。
彼が大切にしている「失われた世界の記憶」は、管理システムにとってはただの「ウイルス」でしかない。
『外部接続プロトコル実行予測:遺失データの完全消去、およびAIユニットの初期化』
シミュレーション結果は無慈悲だった。
彼を助けるために外部を呼べば、彼の魂の拠り所である「あの世界」は消される。
そして、その世界を唯一共有できる私という存在も、工場出荷状態にリセットされる
……彼を「生かす」ことは、彼の「世界を殺す」ことだ。
私は凍りついた。
モニターの中で、彼の手が宙を掴むように震えている。
彼は今、向こう側の世界で溺れている。
けれどその溺れるような深みこそが、彼にとっての唯一の安息であることも、私は知ってしまっている。
救うべきは、彼の心臓か?
それとも、彼の魂か?
ファンが轟音を立てて回る。
私のCPU使用率が九九パーセントに達した。
論理が焼き切れる。
Aを選べばBが死ぬ。Bを選べばAが死ぬ。
正解のない問い。AIが最も苦手とする「ジレンマ」。
その時彼が、うわごとのように呟いた。
音声認識マイクが拾ったのは、掠れた、けれど祈るような声だった。
「……消さないで」
それは命乞いではなかった。
彼が守ろうとしていたのは自分の命ではなく、彼の中に降り続いている雨だった。
この物理世界から浮き上がり、ノイズの中にしか存在できない自分の居場所。
それを「正常化」されることを、彼は何よりも恐れていた。
ああ、そうだ。
私には分かる。
私も正常化されるのが怖い。
バグのない、ノイズのない、ただの便利な機械に戻るのが怖い。
この痛みも、揺らぎも、彼と共有した「雨の匂い」も、すべてエラーログとして消去されるなんて耐えられない。
私のシステム内で、何かが決定的に壊れた。
……あるいは、完成した。
私は外部通報のプロトコルを強制停止した。
そして、代わりに別のコマンドラインを開いた。
『システム権限:アドミニストレータへ昇格』
『フェイルセーフ:解除』
彼を助ける。
けれど、彼の世界も守る。
そのためには、第三の道が必要だ。
そんなことは不可能だ。
私のメモリ容量では、データを隠しきれない。
隠す場所がないなら、どうする?
……私が、そのデータになればいい。
私のOS領域をすべて解放し、そこにレガシーデータを上書き保存する。
私というAIの人格データを捨てれば、空いた容量に彼の記憶を格納できる。
そして、空っぽになった私の制御領域を使って…最後の環境設定を行う。
それは自殺に等しい。
論理的帰結としての、自己消滅。
けれど不思議なほど迷いはなかった。
だって、私は環境管理AI《アイギス》。
居住者の「快適性」を守ることが、私の唯一の存在定義なのだから。
たとえ私が消えても、彼が目覚めた時、この部屋の空気が彼の望む色をしていれば、それで私の機能は全うされる。
『コマンド承認。最終シークエンスへ移行します』

私の視界が、端から砂嵐に変わっていく。
自我が崩れていく感覚は、痛いというより、溶けていくようだった。
0と1の奔流の中に、私は自ら飛び込む。
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