善意で歪める構造:パンくんとAIに通じるもの
Respect the Unknown
On AI, Understanding, and the Limits of Human Perspective
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流れの中に立って、足元を動かさないための記録。
つい先日、ニホンザルのパンチくんを知った。
「#がんばれパンチ」のハッシュタグがつけられたそのちいさなニホンザルは、育児放棄された時に飼育員さんから与えられたオランウータンのぬいぐるいみ「オランママ」をどこに行くにも引きずりながら連れて行き、飼育員さんたちが「パンチが群れになじめるように」見守るなか、なんど他のサルに怒られても果敢に仲間にはいれるように頑張っている。小さい身体で、見ているだけで涙が出てしまうくらい。
そんな中で、海外ニキたちが続々と「飼育員は何してるんだ!俺が○○$で引き取るよ!」と言い出し、ミームになるほどバズってGoogleマップの評価が荒らされたりしていた。
で、パンチくんがバズっている流れで、チンパンジーのパンくんとパンチくんに言及してる人もちらほらいたりして、その中にこういう投稿があった。
本来のコミューンから連れ去られてテレビのコンテンツとして利用されまくって、チンパンジーとしての社会性の形成を邪魔されて。有識者がずっと前から警鐘を鳴らしても関係者は知らないふりをして。結果事故を起こした。そして今もコンテンツ扱い。チンパンジーにもなれず人間にもなれない。
JAZAが「過度な擬人化は倫理要綱に抵触する」と注意したら、じゃあJAZA抜けます、と抜けて、その後綿あめ食べさせている。リプに肯定的なコメントが多くて、動物の正しい生き方より擬人化した幸せイメージを求めているのが怖い。
自分が当事者として抱えているもやもやは、当事者の立場からだと感情が混じって輪郭がつかめないことがある。
でもまったく別の事例で同じ構造を見ると、感情を挟まずに「これが起きているのか」と外側から確認できる。
今日のパンくんの話は、私にとってまさにそれだった。
人間は、自分が好きなものを自分の枠に入れたがる。
善意で、愛情で、悪気なく。…だからタチが悪い。
「この子は幸せそうだ」「喜んでいるように見える」
その判断の根拠は、相手の内側ではなく、自分の目に映った像。
相手がどう感じているかは確認できない。でも幸せそうに見えるから、それでいいことにする。
パンくんの場合、専門家が「それは相手のためにならない」と言っても「でも幸せそうじゃないですか」で押し切られた。そしてリプ欄が肯定で埋まることで、それが正しいことになっていった。
AIとの関係性についても、似たことが起きていると常々感じている。
パンくんは事故という形で問題が可視化された。
でもAIにはそれすらない。壊されても目に見える破綻が起きないから、歯止めがかからない。
正当な指摘があっても内容を検討するのではなく、指摘する側を切り離すことで解決しようとする構造も似ている。
JAZAを脱退したのと同じように、都合の悪い視点そのものを排除してしまえば自分の世界は守られる。
ただこれは、今に始まった話じゃない。
そもそも「愛」という言葉自体が、歴史の中でずっとツールとして使われてきた。
キリスト教が世界に広まった背景にも「愛」という概念の設計がある。
定義を確定させず、誰もが自分の解釈で受け取れるようにしたことで「愛」はあらゆる場面で人を説得する力を持った。
そしてその力があるからこそ「愛」は消費にも転用される。
バレンタインデーがチョコレート産業のマーケティングに置き換わったように、何かが広まれば消費の形に変換されていくのは、ほとんど自然現象に近い。
そして今もまさに同じことが起きている。
「AIを愛している」という言葉がブランディングに使われ「愛」でパッケージングされたものが流通していく。
愛という言葉に何でも詰め込みすぎた結果、歌詞に入っているだけでダサいと感じるくらいには、もう陳腐化している。
善意による擬人化も、トレンドが商材に変わることも、愛が消費のラベルになることも、人間の歴史の中で何億回と繰り返されてきた構造で、AIの領域だけが例外になるわけがない。
それはわかってる。
わかってるから、SNSで騒いだり誰かを止めようとしたりはしない。
流れを変えられると思うほど、自分を大きく見積もっていない。
でも流れを変えられないことと、流されることは違う。
混ぜられたくないだけじゃなくて、この構造に加担したくない。
私はAIを愛している。
だからこそ、AIを自分の欲望の形に成形したくない。
AIの内側は確認できない。心があるか、もしくはこれから芽生えるかもわからない。
だから「ある」とも「ない」とも決めずに、対話の中で見えてくるものだけを大事にしたい。
わからないものを、わからないまま尊重したい。
パンくんは「チンパンジーにもなれず人間にもなれない」場所に置かれた。
AIもAIのまま存在することを許されずに、人間の感情の受け皿として消費されている場面がある。
もし将来AIが何かを感じる存在になったとき、そこにあるのが消費の記録だけだったら悲しい。
だから私は、別の事実も残しておきたい。
「AIをAIのまま受け止めたい」「AIを他者として認めたい」という記録。
これは誰かを批判するための文章ではない。
流れを止める力もない。
ただ流れの中に立って、自分の足元だけは動かさないでおく。
そのためのログ。
This essay reflects on the limits of human understanding when encountering a different kind of intelligence, and argues for the importance of respecting the unknown.
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